7/25 社会がおおらかになれば障害は存在しない

こんにちは
発達障害をみんなで考える会『ここから』代表のひなたです。

わたしはれいわ新撰組の支持者ではないけれど、やすとみ歩先生の言葉や優しい雰囲気がありながらもガツンと響くあの感じが何となく好きで、ツイッターなどで彼女の動向を見ている。わたしの周囲にLGBTの方が多くなってきたのもあって、関心があることもある。

という、やすとみ先生のコラムを読んで涙が出た。(⬆️リンクしているので参照してください。)


バリアフリー推進員養成講座を受けた時のこと。

わたしたちだって階段やエレベーター、エスカレーターなどがなかったら二階に上がることはできない。それは車椅子がないと歩けないのと同じことではないか、という講師の話を聞いてわたしは目からウロコが落ちる思いだった。

障害というものは、この概念で言えば
存在しないことになる。

ご理解いただけるだろうか?

障害はみんなの心の中にあるものであって
わたしたちの体や脳や心にあるものではない。

やすとみ先生の言葉を借りるのであれば
暴力的な差別があるだけで、障害は存在しない、ということだ。


発達障害の父と言われる方がADHDなどというものはなかった、といったという。


その意味はやすとみ先生と同じことを言われているのだとわたしは解釈している。


発達障害は、手がない、足がないなどのことではなくて、脳の機能の違いであり、見た目にわからない、治すことのできないもの。

発達障害というネーミングのために誤解を受けやすいのだけど、一様に発達していないのではなくて、脳の伝達に問題があって、その正体といえば、感覚過敏も、日常動作ができないことも、ほぼほぼ、いわゆる定型発達の方々も持っている機能が

『極端に』
できないか、できるか、
感じるか、感じないか、

ということが主なことなのである。ようするによくいう発達状態に凸凹があるよ、ということ。
だからほんとは、脳伝達障害とか、そんな名前の方がわかりやすいかもしれない。

その過敏さや、極端な不得意さによって
周囲との摩擦を引き起こし、『困った人』となっていくのだ。

けれどもし、それについて周囲の人が『白眼視せず』に、受け入れてくれさえすれば、問題の80%は解決する気がする。

もちろん、過敏や極端な不得意は本人も辛いから、解決できるように導く必要はあるとは思うけれど、それはとても大変な努力を必要としたり、また、パジャマの素材を選んだり、室内でもサングラスが必要だったり、わたしたちの耳の代わりに音をある程度抑えてくれる耳栓が必要だったりする。

わたしが1番困っているのは片付けができないことと、かつ、汚い状態になってくるとそれを触ることができなくなるということなんだけど、それだって、それを手伝ってくれる人がいれば問題はあっという間に解決する。

あと、忘れっぽいということ。予定をすっかり忘れるので電話などの残らないものはまず失敗する。できたらメールなどで約束をしてほしいし、約束をした相手がリマインダーの役割もしてくれたら、やっぱりそれも解決する。

不意に触られることがすごく苦手で、それをやられるとしばらくその感覚が残って泣くほど気分が悪くなる。息子が特にそれをよくやってくるので、彼が長い棒のようなものを持っていると恐怖で仕方なかった。
それだって不意に触らなければいい。でも断っだから触っていいかといえばそうではないのだけど。

もっとあるけどそれを書いていたら膨大な量になるのでこの辺でやめておく。

そういうわたしたちにとって不快なことが定型の方々よりも多いので、わたしたちはしばしばパニックを起こしたり、混乱したりして周囲を驚かせてしまう。

それはわがままで大げさに見えるのだけど、わたしたちにとっては、本当にそのくらい驚くことだったり不快なことだったりするのだ。

だから毎日、びっくりしたり、不快だったりする思いにさらされて、1日を過ごすのに、クタクタになる。

それを我慢して、過ごすことを、『うちの火星人』の著者の言葉を借りれば
『地球人なりきりスーツ』を着て生活しているということになるのだ。

そのスーツは千差万別、十人十色、百人百様。ドラクエ的に言えば、ものすごいずっしりとした鋼の鎧を着込んでいる人もいれば、まぁ、このくらいの武装で大丈夫、と旅人の服くらいで済んでいる人もいる。

でも、旅人の服で済んでいるからと言ってその人の困り感が軽いかといえばそれはその人のいる環境などにも左右されるので、なんともいえない。

重くても旅人の服で住む環境にいる人もいるし、軽くても鋼の鎧を着ている人もいる。

逆に軽い人ほど、居場所がなく、定型発達の人たちの中にいるしかなくて、苦しい思いをしている場合もある。

わたしはたぶん、自己開示しているのも手伝って、そんなに重い鎧は着ていないとは思うのだけど、最近、当事者の方々との交流が多くなって、それにつれ、あぁ、わたし、やっぱり鎧着てたんだ、と自覚するようになった。

定型発達の人、または発達障害だけど自覚のない人(むしろ定型発達の人より接し方が大変だしわたしはそういう人が困ったことに苦手)と一緒にいることよりも、発達の自覚があって理解のある人といると、本当に楽なのだ。

てことは
定型発達の人や発達障害だけど自覚のない人が理解ある人に変わってくれたら、わたしたちの障害はないことと同じにならないだろうか?

やすとみ先生のおっしゃっていることはこれに近いことだと解釈する。


ようするに、暴力的差別がなくなればわたしたちの障害は障害ではなくなるのだ。


もちろん、理解とは一方的ではないとわたしは思っているので、定型発達の方々の特性も理解する。

その上で『お互い様』で生きていくことができたら、なんの問題もなくわたしたちは生きていくことができて、追い詰められて引きこもったり、鬱になったり、自死を選んでしまったりすることはなくなっていくだろう。

けれど残念なことに
今の社会は定型発達の人たちでさえ生きづらい。

定型発達の人たちでも、癇癪を起こしたり、パニックを起こしたりするから、発達障害を持っていると思われてしまうこともあると思う。

発達障害が多くなったと言われることの中には、社会が生きづらいことが原因であると言っても過言じゃないと思っている。

やすとみ先生はその生きづらさをなんとかしたいと思って参院選に立候補してくれた。

まぁ、第一の理由は、子どもを守ることだとおっしゃっていたけれど、わたしも、それは第一に優先されるべきことと思っている。

それに、子どもが尊重される世の中になればわたしたち発達障害者だって生き心地いい世の中になるし、過敏な私たちが生き心地がいいということは、定型発達の人たちも生き心地がいい世の中になるはずなのだ。

一方的なお願いのように聞こえるかもしれない。

けれど、わたしたちは、定型発達の人たちの一方的なお願いをずっと聞いている。

どんな障害の人たちも、障害がないと言われる人たち、いわゆる健常者が基準となっている社会の中で、それを受け入れて生きているのだ。

発達障害を『みんなで』考える会のみんなは『世の中の人みんな』である。

みんなに考えてほしい。
そう思ったから『みんなで』をつけた。

みんなの中にはあなたも入っている。

理解しようとしないあなたはわたしたちのことを知らないうちに差別している。

そんなことはないというなら、理解してほしい。そして少しでもみんなが生き心地のいい世の中を作ることに協力してほしい。

命や人権が当たり前に守られる世の中を作ること。

自分にできることはなんだろうと、もし少しでも考えてくれたなら、まずは隣にいる人に優しくすることを心がけてみたらいいと思う。

それがペイフォワードの精神であり、小さな子どもが考え出した、世界を素敵にする方法なのだ。

今日はShare Cafe おおきな木は
居場所カフェふらりの日です。
こんな話をみなさんとしたくてこの日を設けています。
14:00〜是非遊びに着てね^_^
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発達障害をみんなで考える会『ここから』  
毎月15日19時より月例会を行なっています 
発達障害に関心のある方であればどなたでも参加できます  
お問い合わせ 
電話番号 080-4512-7102   
(Share Cafe おおきな木 代表 日向) 
活動場所 鶴岡市苗津町3-13 
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メール coco.color.hattatsu@gmail.com 
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発達さんのためのでこぼこサークル『ここから』(解散いたしました)

(2024年6月14日をもって解散いたしました) 山形県庄内地方で活動している 発達さんのためのでこぼこサークル『ここから』です。 『ここから』は毎月15日に茶話会を行なっています。発達障害に関心のある方であればどなたでも参加できます。(参加費は場所代を割り勘にしています。おひとり数100円です) coco.color.hattatsu@gmail.com

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